(中島岳志著、「リベラル保守」宣言、新潮社、2013年)


 価値観の多様性を認めるという意味で「リベラル」を再定義し、「リベラル保守」の政治家を目指していることは、このブログでも折に触れ書いてきました。


 中島岳志の近著、「『リベラル保守』宣言」を読んで、我が意を得たりとの思いを深めました。


 中島によれば、「保守主義とは、人間の不完全性を直視し、その能力の限界を謙虚に受け止める。したがって、過去の制度は不完全と考えるので『復古主義』は取らない。当然、現在の社会も不完全なので、『反動主義』でもない。保守は社会変化に応じた漸進的改革を目指す。」


 また、「世界観を異にする人々が、違いを超えて同意できる原理こそがリベラルの名に値する。リベラルには『自由』とともに『寛容』という意味がある。特定の歴史の中で形成された寛容と伝統の中にリベラルの正統性がある。」とも述べています。

 
 その意味で、私は価値観の多様性を認める寛容な保守政治家でありたいと思います。


 左翼思想は、「人間の理性によって理想社会が実現できる」ことが前提です。共産主義やファシズムの全体主義はそこから出発しています。それが不可能なことは歴史が証明しました。

 保守主義は、「人間の知性や理性を超えたものに価値を見出します。社会的経験知、良識、伝統、慣習、そして宗教。」

 保守政治家は、共同体や地域コミュニティ―の中で、「自分が一定の役割を演じ、社会的に意味ある存在であるという認識を持てる」個人を復活させます。すべての人に居場所と出番を与えることが保守政治家の仕事です。

 加藤紘一元代議士は、「リベラルとは、『他人を気遣う心』と定義した上で、地域の中で責任を果たしている人に支えられる『地域の共同体』こそがリベラルの強さだ。」と自著「強いリベラル」(文芸春秋、2007年)で定義されています。

 中島は、こうも述べています。「保守が守るべきナショナリズムは、国民が自らの社会的役割を認識し、責任と主体性をもってトポス(場所)を引き受けるところから生まれる。ナショナリズムを排外的な意識へと先鋭化させるのではなく、国家によるナショナル・ミニマムの保障と再配分の強化によって国民への責任を果たさせることに使うべきだ。」と。

 私も、日本のナショナリズムを認めるならば、隣国のナショナリズムも等しく認めるのが保守政治家だと思います。

 明治4年に日露間で、樺太の国境策定をめぐる対立が起きた時、明治天皇は全権代表の副島種臣に「両国の国民が将来にわたって友好な関係を結び、幸福になれるように解決すべし。」との趣旨の命令を発しています。

 リベラルな保守政治の模範とすべきだと考えます。

 今後、論考を深めながら、価値観の多様性を認める寛容な保守政治の勢力を形成していきます。